その日――――

 彼はどことなく不安げな視線を兄に分からないように侯爵様に向けていました。どうしてと思っていたら、
「じゃあそろそろ帰るとするかな」
 侯爵様が席を立ったその時、グラッと崩れ落ちそうになったのを彼が昨日助けたように抱きとめ、額に手を当てました。

 先ほどの元気な姿とは思えないほどの高熱。私は急いで、
「誰かお医者様をっ!早くっ!」
 呼びました。彼はわかっていたのです。侯爵様の体調があまり良くない事を。言いはしたのでしょう。
ですが侯爵様がきっと大丈夫だと答えたのでそれ以上の事が出来なかったのだと思います。

 彼は足に腕を通し、
「少し気分が悪くなるかと思われますが、ご辛抱下さい」
 そう声をかけると侯爵様うつろげな目で彼を見ました。それに、
「ここにいますよ。安心して下さい。ご主人様」
 口にし、抱き上げて兄の横を通り過ぎました。
もはや彼の目には兄は映っておりませんでした。侯爵様は彼を持っていったのです。いとも鮮やかに。

 通り過ぎられた兄は瞳孔を開いて茫然と立ち尽くしていました。

持っていかれた。

 そう思ったのでしょう。でも何を持っていかれたかというのは今もわかってはいません。

「彼は兄の事をご主人様とは最後まで呼びませんでした。それは意地でも憎しみを持った決意でもないのです。
 呼ぶ事が出来なかったのです。彼なりに努力はしてくれたのでしょう。でも出来なかった。人は正直なもので、
自然とそうなってしまう。でもそれは無理からぬことだと思います。
 兄にはそれに足るものがないと私は知っているからです。自分の事ばかりで人の事などかえりみない、だからあのよ
うな真似が出来たんです。自分の主を死に追いやった人を信じろというのが土台無理な話なのです。
誘いに来た方々も兄よりはあるでしょうが、足るものがなかったから振っていたのです。それを信じているあかしなのだと、
全く愚かなことですよね」

 一か月後、侯爵様はお亡くなりになりました。その葬儀の時、兄はまたしても彼を部屋に閉じ込めました。
 ですがその時も首をつった主と同じようにおとなしくしてました。

 解放されたその昼ごろ、悲しみを帯びた旋律が屋敷内を風と共に駆け廻って誰もがその旋律に耳を向け、忍びなく声
さえ現れる。

 そこに兄が現れ、彼は弾く手を止めました。

 きっと主である自分ではなく主と呼んだ侯爵様のために弾いている。
 来て一度も弾かなかったピアノを侯爵様のために弾いている。
 崩れ落ちゆく侯爵様を抱きとめて主と呼んだ事を。自分を見ることなく通り過ぎた事を。

 裏切られた。許さない。そう思ったに違いありません。

 兄は部屋に入ってピアノの椅子に座っている彼の胸ぐらを片手でつかみ上げ、睨みつけました。

 しばしの沈黙の後、彼は悲しみをにじませた笑みで、
「申し訳ございませんでした」
 謝りました。

 もう・・・・兄の元には戻っては来ない――――




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