その日、田淵は張り切っていた。

「んじゃ行ってきまーす」

「いってらっしゃーい」
 櫻井は呆れた表情で田淵に手を振り、自らも職場へと向かう。

 時をさかのぼる事2月の初旬――――

 寒さがピークに達する時期でありながら、田淵だけがまるで早い春、いや早い夏を思わせるがごとく燃えていた。

「叩きすぎてとうとう頭がいっちゃったのかしら」

 それにミリィの横にいた櫻井はあきれ顔で、
「バレンタインだから」
 返す。

「あぁ、バレンタインね」

「きっと仕事でかかわった人にあいさつ回りとか言ってもらうつもりなんだよ」

「ばっかじゃないの」

「俺もそう思う」

「坊やはあまり関心ないみたいね」

「俺そんなに甘いもの食べないし、でももらったら返すよ。とは言っても、お菓子の詰め合わせで済ませてるんだけどね」
 苦笑する。

「それでも返すだけいいじゃない。田淵ぜったい返さないわよ」
 腕を組む。

「そうかも」

 会話している最中に、
「おはようございます」
「あ、よっちゃん」
「田淵さんこのごろ随分と楽しそうですね。何かあったんでしょうか」
 芳井が声をかけてきた。今から教室に行くようだ。

「バレンタインだからよ」
「あぁ、それで。今僕の教室でもしていまして、部屋の空気がチョコで充満してます」

 その後――――

「おはようございまーす」
 櫻井が職場に着き、その廊下を歩いていると、所せましにその会話が流れていた。

「どれにしようかしらねぇ♪最近のチョコはみんなかわいくて華やかで迷っちゃうわ」

(チョコ・・・・・かぁ)

 櫻井はこの道すがらチョコが頭から離れなかった。

(こういう場合ってどうするんだろ。やっぱり買った方がいいのかな。でも毎日顔を突き合わせてるわけだし、別に)

・・・・・

(ちょいまて。どうして俺が女の子みたいな事考えてるんだ。おかしいだろ・・・・いや、でも)

・・・・

(あーっ!なしだなしっ!俺は男なんだ。そんな事をする必要はなしっ!以上っ!)

「っと、櫻井ちゃん。聞いてるの?」

「え、はいはいなんですか?」

「何考えてたの?」

「いや、なんでも」
 まさかチョコの事だとは言えない。

「まぁいいわ。ところで櫻井ちゃん、バレンタインはどうするの?」

「え」
 それに先ほど解決した答えを言おうとした矢先、
「遼君!」
 威勢よくあのモデルが来た。頬には大きな張り薬が。

「ちょっとアンタ何しに来たのよ」
 話を聞いているスタッフはこのモデルに対してはあからさまに冷たい態度を取るようになった。

 机を挟んだ状態で手をそこに置き、
「君のバレンタインのチョコは僕がもらうから」
 自信満々に言う。それに、
「・・・・は?」
 肩がずりっとさがる。田淵と同じ春を通り越した夏の人間がもう一人。

「先ほど君の彼氏に挑戦状を叩きつけてきた所だ」

 それは朝の事、出勤してきた牧に、

「僕のチョコの量が多ければ恋人はもらう!」

 宣戦布告。それに牧はノーリアクションで素通りすると、

「待てっ!人の話を」
 肩を掴もうとしたら、

 ゴスッ!

 肘鉄を顔面にくらわされた。頬の張り薬はそのせい。

 牧の反応としては当然のことなので櫻井はさして驚きもせずに聞き流し、
「いや、俺は別に」
 つい先ほど決定した答えを述べようかと思ったが、横にいた掛川が、
「あんなひどい目に合わせておいて何がチョコよ、ふざけるのもたいがいになさいっ」
 そのモデルに食ってかかる。

「あれはもうしないって」

「しないとかそういう問題じゃないでしょっ!あんたも懲りない男ね!」
 言うと、
「そうだよ、僕はね、落とすまであきらめないんだ!悪い?」
 開き直られ、それがあまりにも、
「にっ・・・・くたらしいわねぇ・・・・!」
 憎たらしい。掛川の顔が引きつる。そこから痴話げんかに突入。その痴話げんかを困った表情で見る櫻井。

(あげないんだけど・・・・・)
 中に入れず機会を失う。



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